武州と藍染め

日本で藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代に入ってからと言われています。
日本各地で藍染めが盛んに行なわれ、関東においては埼玉県羽生市近郊が糸染めの産地として発展していきました。
武州(ぶしゅう)は、日本の旧国名である武蔵国の別称で、羽生市もこのエリアに含まれます。

武州の羽生は青縞の地

江戸時代後期、現在の埼玉県加須市にあたる騎西(きさい)周辺の農家の副業として、藍染めの綿織物が始まりました。
糸を染めた後に布に織り上げるため、染めむらによって縞柄のように見えることから、青縞(あおじま)と呼ばれています。

青縞の生産は、北埼玉地方の羽生、加須、行田が中心。
野良着をはじめ、足袋の表地などにも用いられてきました。

愛染明王と武州の藍染め文化

埼玉県熊谷市にある「愛染明王(あいぜんみょうおう)」は、地元で昔から親しまれていた仏閣のひとつ。
江戸時代から明治の末までは、この愛染明王を毎年1月26日に参拝する儀式がありました。
その中心にいたのは、江戸の染めもの屋や、藍問屋、藍染め屋、藍の栽培農家、藍染めを織る人たち。
当地・武州はそれぐらい、深く藍染め文化が根付いたお国柄だったのです。

近代日本経済の父・渋沢栄一と藍染め

近代日本経済の父・渋沢栄一
(写真:埼玉県深谷市所蔵)

一万円札で馴染み深くなった、かの渋沢栄一も武州の藍染めとゆかりの深い人物の一人です。

彼は実家の主業でもあった深谷名産の藍玉(染色原料)の売買を手伝い、少年期から大人顔負けの商才を発揮。
大きな利益を上げると同時に、「論語と算盤」を唱え、近代日本経済の父として明治の日本を牽引していったのです。

明治の文豪・田山花袋が見た羽生

田舎教師

田山花袋『田舎教師』(新潮文庫刊)

「四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった」。

これは明治の文豪、田山花袋の「田舎教師」の冒頭の一説です。
明治34年、羽生の小学校の代用教員として採用され、明治37年に病で死ぬまでの約3年半の生活が描かれています。

当時、武州特産の青縞は羽生にとって代表的な地場産業。
青縞は武州藍として全国に知られていました。

100年の伝統を守る野川家

埼玉県北部において、伝統の技を今も受け継ぐ数少ない紺屋のひとつが、野川染織工業です。
1914年、初代・野川喜之助が「喜之助紺屋」を創業したのがその起源。

初代・喜之助は、武州の地で育まれてきた青縞の技術を高め、生地の品質を競う品評会で一等賞を受賞するなど、その名を知られる存在となります。

二代目・正之助は、戦争という時代の大きな断絶を乗り越え、生還。
藍染めの再起を期して、新たに機織りの道に命運をかけました。

高度経済成長の陰で野良着の需要が激減する中、三代目・喜重は剣道衣類という新たな市場に挑み、「武州一」を世に送り出しました。

そして現在、剣道衣類の市場を拡大し、剣道衣類以外の新商品も生み出した四代目・雅敏から五代目・雄気へと野川家のものづくりは継承されています。

時代の変化に向き合いながら、守るべきものを見極め、変えるべきところには挑戦する。
その姿勢は、初代から脈々と受け継がれてきたものにほかなりません。

武州の藍とともに歩んできた野川家は、いまもなお、次の時代へと続く道の途中にあります。